背を丸め、肩を落とし、項垂れ、何も映さない瞳で虚空を見つめながら、それでも鷲頭は、正した座を崩さずにいた。
自己と他者との明確な区別を求めたがる年端に初めて務めを果たしてから、もう何度目になるかわからない、刑務所での日々。塀の外にいるときよりも長く感じられる時間は、「考える」以外にすることがなく、ここへ入れられた理由について、否が応にも思考がめぐってしまうからだ。しかし今の鷲頭を襲うそれは、過去に経験した苦しみと比べようもない。
ひとの命を手にかけた。
それも、最も大切なひとの。
己の所作に間違いがあったとは思っていない。
それなのに、なぜ。


──考えろ。
耳によみがえる声があった。ああ、おやじの声だ。鷲頭はほとんど空洞の頭の中で、記憶の声へ寄り添ってゆく。
──考えろ、鷲頭。そいつを殺して、お前に何の得がある。
雨の煩い夜だった。理由は忘れたが、柄の良くない連中に難癖をつけられ、路地裏でそいつらの顔面を骨格が歪むほど殴りつけていたところを、通りかかった立て衿の男に咎められた。胸糞の悪い説教を垂れるようなら諸共息の根が止まるまで哭かせてやろうと思ったが、その男の声は雨より冷たく、雨より静かに、雨より響いた。
──鷲頭健介……お前、この辺じゃすっかり有名人だ。
刑務所帰りの未成年。夜の街にはそういう噂はすぐに広まる。それで今晩のように絡まれることが多く、逆上してそいつを殴れば、今度はどこの誰が半殺しの目に遭ったらしいなどとそこここで囁かれ、物見気分の馬鹿がまた増える。最近は、その繰り返しだった。
──おっさんも、死にてえのか。
虚ろな目を真横に細め、男を見返した鷲頭に、男は笑って、おっさんか、俺も歳を食ったもんだ、と言った。
──……ただ感情に任せて暴力を振るうだけにしておくには、惜しい男だ。
鷲頭の手元に目を留めながら、男は満足そうにゆっくり言葉を紡いだ。鼻面一点へ、正確に何度も、短時間にできるだけ多く、叩き込む。相手は大概が口達者なだけの小物共だ、有無を言う暇すら与えなければ、あとは無抵抗の獲物を好きなだけむしゃぶれば良い。周囲が鷲頭を冷やかしたいのと同じだけ、鷲頭もまた、そいつらを殴ることに愉しみを覚えていた。そうして編み出した一番効率的な愉しみ方に、男は賛辞を送ったようだった。
何者だろう。
改めて、鷲頭は男の顔を見た。誰かと目線を交わすなど、今まで生きてきて、初めてだったかもしれない。
薄い眼鏡のレンズ越しに、男は性能の良いマシンを見るかの瞳で、鷲頭を射ていた。
──俺のところへ来い。頭の使い方を教えてやる。
それが、水田千一との邂逅であった。


考えろ。
考えろ。
考えろ。
いつでもそのひとの最善を、そのために己ができる最大限を、必要とあれば切り捨てるべきものを、たとえ、その一瞬には痛みを伴ったとしても。
俺を理解し、力を与え、この畜生だらけの世に生まれ落ちたことに、意味を見出してくれたひとのために。
そうして生きてきた年月の長さはいくらも、鷲頭の踏みしめる大地を磐石にはしなかった。揺らいだのでも、崩れたのでもない。鷲頭が大地だと思っていたものは、鏡に映った空だった。海に浮かんだ雲だった。鷲頭にそれを気付かせたのもまた、そのひとにほかならなかった。
深く、突き立てた刃を飲み込んだのが、誰の胸であったか、それを知ったときから。
今まで世界だと信じてきたものが、弾け飛び、勢い付いて膨張していく。
覚束ない。立っていられない。
鷲頭の世界から永遠に失われたもの。目先にぶら下がる安易な憎しみに縋れば、また世界が戻ってくるような気もした。あるいは、そのひとの血に染まる穢れた己の掌を見つめ、法にも誰にも因らず、自身の呵責により死ぬべきだとも思えた。しかし。
考えろ。おやじは俺に、そう言った。
憎むべき者を、許されざる己を、殺したところで、何になる。
考えろ、考えろ、考えろ。
落下する暗闇の浮遊感が、やがて緩やかに減速してゆく。
気付けば鷲頭は、小さな灰色の独房で座を正していた。もう一年も、ずっとそうだったのだが、そのことに今、気が付いた。
ひとつ、身震いをする。これもまた、真実だと思い込んでいるだけの、己の脳に湧いたまやかしかもしれない。
でも、おやじ。
「考える意味を考えることを、よすがに生きても、いいでしょうか」
俺は、生きてもいいのでしょうか。
応える声はない。
ただ、足の痺れが酷く現実味を増してきたように思われるだけだった。